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概要

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104兄と原爆辻本 堪子  家族は広瀬町に住んでいました。母は四月に三女をお産しましたので、私も一緒に可部に疎開していました。兄(節雄)は四年生で、本家が近く、叔母にお世話になり毎日作業所へ、通っていました。日本製鋼所へも行っていましたが、八月六日は建物疎開作業で、市役所付近で建物を外から壊していて、被爆をし数人一緒に逃げている途中、比治山の下迄行った時、兄は黒血を沢山吐いて、「もう僕は駄目だから、皆僕に気を残さずに逃げて下さい」と言って叫んだそうです。お友達は、「辻本君に心を残して、後を見ながら、自分達は行きました」と言っておられたそうです。その後、救護班の人に助けられ、府中国民学校へ連れて行かれました。 そこには学徒動員の学生や一般の人が沢山並べてあったそうです。その中に県商の生徒がおられ、そのうち目が見えなくなったり、口がきけなくなったり、容態が変わっていったそうです。 母は身を切られるような思いで、兄の安否を気づかっていましたが、赤ちゃんを連れて捜しに行かれず、父は出征していてどうにもなりませんでした。そうしたら九日の晩に知らない人が来られ、「私は可部の者ですが、うちの息子も学徒動員で出ており、行方がわからなくあっちこっち捜して、府中国民学校へ行って、火傷をした学徒の人達に、私は自分の苗字を言って息子を捜したんですが、その中にはいませんでした。ところが『私は可部の者じゃが』と言いながら歩いていたら一人の学生さんが『あー、あなたは可部の人ですか。実は私の母が可部の河戸の重松という所に疎開していますが、赤ちゃんがいるので、ここへはよう来ないでしょうが、私がここに居ることだけ伝えて下さい』と言われました。私はお母さんに伝えられればいいがと心配しながら来たんですが、伝えること