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116下敷きとなった講堂から鎌塚寿恵子 今年も、また八月六日が訪れようとしている。夾竹桃の赤い花が、灼けつくような夏の空を彩った暑い日を、今でも私は忘れることができない。 昭和二十年八月、太平洋戦争は日毎に熾烈の度を極め、アメリカのB29による空襲は連日のように繰り返されていた。国内の大都市はほとんど焦土と化し、本土決戦は間近だという噂も飛び交うほど敗戦の色濃く、緊迫した日々が続いていた。国民は悲壮な覚悟を決め、それでもなお「勝利の日まで」との決意を胸に、懸命に頑張っていた。 当時、私は十七歳の女子学生であった。前年の昭和十九年には学徒動員令が下って、男子学生はペンの代りに銃を執って戦場に出陣し、男女中学生(旧制)は、軍需兵器生産のために勇躍、軍需工場へ向かった。私たち女学校の生徒は、呉市にあった広海軍工廠へ配属され、私は自分よりも大きな六尺旋盤を操作して、軍艦の部品を造る仕事に懸命に従事した。三月には、古今未曾有の『卒業式』が工場内で挙行された。私たちは、白鉢巻にモンペ姿で式にのぞみ、来賓として海軍の技術将校が、金モールの軍服姿で列席していたのも戦時下ならではのことであった。卒業後もそのまま四カ月余り、寮から工場への出勤が続けられ、「月月火水木金金」の軍隊と同様に休まず、まさに恪勤精励の日々であった。 七月末になって突如、進学した者だけ帰校が許され、十数名の友と一緒に広島のわが家へ帰った。それは動員されて以来、約一年二カ月ぶりの帰郷であった。ようやく専門学校の生徒として通学を認められ、その後一週間は学生生活を楽しむことができた。午前中の講義を貴重な時間と思い、学生らしく真剣に学んだ。休憩時間には久しぶりに友と語らい、その喜びはたとえようもなく、皆活き活きしていた。そして、運