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124広島では、家族が揃って無事だったということは、余程の幸運であり、皆から羨ましがられたものである。材木関係で軍の下請け企業だった父の工場は三日間も燃え続け、地下室には炭の山ができた。私が帰った時も、まだ火がくすぶっていた。肉親では叔母が二人爆死している。一人は爆心地に近く、家の下敷きとなって死に、もう一人はいったん逃れ出ていながら、足の骨折で歩くことができず炎に巻かれたらしいと聞いた。その叔母は、どこで亡くなったものか、いまだに遺骨も見つかっていない。戦後に姉と結婚した義兄は、水主町で被爆し、身体に無数のガラスの破片が突き刺さり瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に命を取り留めた。まだ何カ所か、「ガラスが入ったままだ」と話してくれていたが、病気がちで何度も入退院を繰り返し、とうとう四十六歳の若さで癌に侵されて亡くなってしまった。 爆心地に近い町では、一家全滅という家も多かった。郊外の田舎に疎開先を見つけて、子どもや老人を預け、「私は身軽だし、いつでも逃げられる」と笑って話していた人が被爆死してしまい、幼い子どもと荷物だけ残されたという家庭も多かった。 私の母校では、多数の犠牲者が出た。市内の建物疎開に奉仕作業していた後輩と引率の先生は全員亡くなったということであった。たった一発で、二十万とも二十五万ともいわれる犠牲者が出た広島市であった。原因不明だった突然死 それから間もなく、終戦の日を迎えた。ラジオもない防空壕生活をしていた私たちは、敗戦の報を翌日になって知った。被爆した知人や怪我人を多数預かっていた生活で多忙だったため衝撃はなかった。むしろ「ああこれで空襲もなくなるし、逃げ惑うこともないのだ」と、敗れた悔しさよりもただホッとしたというのが実感であった。 八月十五日を期に空襲はピタリと止み、サイレンのけたたましい響きもなくなったほか、夜空に光っていた無気味なサーチライトも消えて、静かな夜がよみが