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概要

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125 下敷きとなった講堂からえった。廃墟となった広島に平和が訪れた。しかし、戦後の混乱は日本国中どこも同じで、飢えと疲労の中で人々の心はすさんでいた。広島でも、傷を癒すこともできないまま、亡くなる人が続いた。また、怪我もしなかった元気な人が、ある日突然発熱し、原因不明の下痢を繰り返して衰弱していった。歯ぐきから出血し、髪が抜け落ちて丸坊主になった人も多くいた。焼け残った木の陰やビルの中で、家族の名を呼びながら苦しみ続けて亡くなる人もいた。近郊の都市に逃れた人や、収容所に助けられた人も、薬や包帯が十分でなく満足な手当ても受けられなかったと聞いた。私の家の工場でも、何体かの遺体を葬った。燃え残りの木を積み重ね、その上に焼けトタンを載せるだけの火葬であった。青白い炎が立ち上るのを、じっと見ていたことを今でも思い出す。 やがて、焼け跡に、寄せ集めたトタンで囲った小屋やバラックが建ち始め、避難先から人々が町へ帰ってきた。急造の家からはろうそくの灯りが洩れるようになり、時には笑い声さえ聞こえる日もあり、貧しくても少しずつ生気を取り戻してきた。 私たちは、防空壕生活を三カ月余り続けたが、家がなくても父母がおり、姉妹も欠けることなく、ただ一人の兄も無事に復員した。若さもあって怖いものは何もなかった。家族と力を合わせて小さな家を建てるときも、女の手で金槌を使い、板を運んだり鉋で柱を削ったこともあった。通りかかった駐留軍の兵士がジープを止めてもの珍しそうに見ていたが、当時としては決して不思議な光景ではなかった。原爆忘るまじ 「七十年間は草木も生えない」といわれた広島市であったが、多数の市民を失ったにもかかわらず、終戦後に目覚しい復興を見せた。世界で最初の被爆都市として、注目されていたし、残された市民の心が一つとなって街を興せと立ち上がったからであった。 翌年の春には、あちこちで青草の芽がいぶき、焼け残った大木の根元からも柔らかな新しい枝が伸びて、再び緑がよみがえった時は本当にうれしかった。山も