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174整備手伝い、安芸中野の農家の麦刈り、矢野町辺りの防空壕掘り、戸坂水源地の泥上げなど、屈強な男性のいなくなった場所で、最も手軽に、無給か大きなムスビ一個で働かせることができる貴重な作業従事者であった。 原爆投下前日、即ち八月五日は水主町(現在の加古町)にあった県庁付近の建物疎開の整理手伝いに行き、一日置いて七日も行く予定であった。もちろん、八月六日の原爆によって、その県庁の建物があった所は、跡かたもなく破壊され、焼け落ち、ほとんど生存者はいなかったという。運命の日、八月六日。一年生は中島新町(現在の平和記念公園の本川側)の建物疎開の跡片付けに駆り出され、箕村登先生ら引率教官四人、生徒三百二十二人は全滅の悲運に遭遇した。私たちは二年生であったから、そして原爆投下が八月六日であったから生き延びて、かくも老醜の身をさらすことになったのである。 八月六日午前八時、何ら遮蔽物のない広々とした東練兵場に、私たち二年生は集合していた。整列後、芋畑の草取り作業にかかる予定になっていた。もちろん、警戒警報も発令されていなかった。当時、長く尾を引く警戒警報や短く区切っては繰り返される空襲警報のサイレンが鳴る時は、登校しなくてもよかったし、途中で防空壕などに避難することが義務づけられていた。 その警戒警報も出されていない青空を、米軍機三機がうんと高い所を北から南へと飛び去った。その時、一機が東からかなりの低空で飛来、私たちは思わず「あっ、飛行機、飛行機」と口々に叫んだまでは覚えているが、はっと我にかえると、そこにいた者全員が爆風に吹き倒され、みんな草の上に横たわっていた。目の前の草や辺りのものすべてが真っ黄色に燃え上がって見える。ちょうど、黄色のフィルターをかけて被写体を見るように。そして、日射病にかかり、目まいを起こして、まさに倒れんとする時の感じによく似ている。 見ると、広島駅も、鉄筋コンクリートの本屋を除いて、各建物がぺちゃんこに崩壊している。その向こう