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265 被爆とその後の苦しみ被爆とその後の苦しみ榎? 昭夫 あの日、五十年前の八月六日、一発の原子爆弾により、一瞬のうちに広島市はこの世の地獄と化し、数十万人の尊い人命がなくなったのは、つい昨日の様な気がします。 当時私は、広島市皆実町にあった広島県立広島商業学校一年生であったが、学徒動員で建物疎開作業出動準備中、校庭で(爆心地から一・七キロメートル)被爆しました。 「ぱっ」と光った瞬間、身体の中に火が入ったようだった。どの位経過したかわからないが、気がついた時は、五、六米遠くに飛ばされ、ワイシャツ、ズボン、足に巻いたゲートルも、靴も無かった。校庭にごろごろと横たわっているクラスメート。両手、両足、腹部、そして顔面熱傷を受けた部分の皮膚や肉が、ぼろ布の様に垂れ下がっていたが、その時は痛さも感ぜず、ただ逃げるのに一生懸命でした。 「お母さん、お母さん。」と泣き叫ぶ声を聞きながら、火の海をくぐり、比治山へ逃げました。そこで陸軍の兵隊さんが、油のようなものを火傷部分に塗って包帯をしてくれました。午後三時頃だと思いますが、比治山から府中町方面へ逃げる途中、意識がもうろうとして倒れている所を運よく従姉に出会ったお陰で、救援隊のトラックで、府中町から矢野町まで連れて帰ってもらい、矢野小学校に収容されました。 それから数時間後、再び救援隊のトラックで、熊野町の自宅に運ばれたきり、意識不明が二ケ月半続き、町医者からは、薬もなく生命も駄目だろうと見放され、全然治療も受けず、家で寝たきりの状態でした。その間、うわ言で「痛いよう、熊野に帰りたい、痛いようー熊野に帰りたい」と繰り返していたそうです。 下痢症状も激しく、その間水だけ欲しがり、他の食べ物は何も受けつけず、母は水の代わりに、「どくだ