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267 頑張って生きて行こう頑張って生きて行こう池田 精子 原爆投下の八月六日、爆心地から一・五キロの鶴見町で、動員学徒として家屋疎開の後片づけの作業中に、被爆しました。女学校一年生で十二才でした。強烈な閃光を受け、爆風で飛ばされていました。 気が付いた時は、髪はちぢれ、衣服はボロボロに焼け落ちて、肌をかくす気持ちさえ失って、ただ悲鳴をあげ助けを求めて逃げていました。全身に火傷を負い、泣きわめきながら、みんなと一緒の方向について逃げて行きました。道端には、魚を黒こげに焼いたような死体が沢山ころがっていました。そうした死体や重傷の人びとを跨いだり、よけたりして歩きました。比治山にはい上り段原から大正橋を渡り、通りがかりのトラックに乗せてもらって海田町の病院に運ばれました。手当が終わって奥の座敷に寝かされました。気分がゆるんだのか、いつとはなく眠ってしまいました。気がついた時は、まぶたが腫れ上がって見えなくなり、口も少ししかあけられませんでした。 病院には、父が近所の人と大八車に蒲団を積んで、迎えに来てくれましたが、父はあまりにも変わり果てた私の姿に、自分の子がどれかわからず、「精子、お父さんが迎えに来たよ」と大きな声で呼びながら、怪我人の間を探して歩いたのです。その声に、思わず、「お父さん」と開かない目を一生懸命見張りながら泣きつきました。 家に帰っても、どこの医者も満員で往診してもらえず、家庭療法を続けました。父が痛がる私を叱りながら、流れ出る膿みを一日二回ずつ拭き、亜鉛華をヒマシ油でといたものを、火傷に塗って治療するのですが、それは生の皮をはぎとるような痛さでした。十日位は高熱と下痢や嘔吐で生死の境をさまよいました。 被爆後半年位たって、通学出来る様になりましたが、人びとの目が気になり、列車通学が耐えられなく