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27 県工寄宿舎の思い出蘇ってくるのである。 昭和二十年三月、私は飯室国民学校(現・安佐北区広島市立飯室小学校)六年を卒業した。当時の級友は、男女で五十二名であった。戦時下のことでもあり、中学校へ進んだ者は、わずかに五名であった。その中の二人、上田和明は県立工業学校の電気科へ、私は同校の機械科へ進学することになった。 進学の動機は、両親の強い勧めもあったが、兄が県工の土木科(第四十二回)を卒業していたことや、小さい時から、工作のような物作りとか機械いじりが好きでもあり興味を持っていたという、単純なものであった。飯室からの通学は困難なので、広島市吉島町の県工寄宿舎に入寮することになった。 四月七日、父と私は、布団、本棚、身の回りのものは柳行李に詰め、大八車に乗せて、幕の内峠を越え、可部から横川を通って吉島の宿舎に向かった。いつ何が起きても不思議でない状況下であったが、明日から始まる新しい生活への期待感は強かった。子どもの足には、かなりの道のりであったが、疲れを知らず、懸命に車の引き綱を握っていたことを、よく覚えている。 当時の寄宿舎は、木造校舎を思わせるたたずまいであり、門を入ると右に舎監宅があり、舎監は英語担当の土屋先生であった。左手前から平屋の寮生室、その奥に、防空壕のある中庭を挟むように、南北に二階建ての棟があった。その他に集会室や食堂があった。 私は北側の二階の中央の室が割り当てられた。その中に、三年生が一名、二年生が二名、一年の三名が起居を共にしていた。当時の寮生は百名前後いたのではないかと思う。 新入りの一年生にとって、それからの寮生活は決して楽しいものではなかった。特に夕食後、二時間の自習時間には、一言の私語も席を立つことさえ許されず、ひたすら机に向かうことを強いられた。このような規則があったせいか、寮生は学校でも成績が優秀だと、上級生が自慢していたが、いつも上級生の監視の目を意識しての学習はつらかった。 就寝前には、全員廊下に正座させられ、一日の反省会と称して、上級生によるビンタの洗礼が待ってい