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概要

gakuto

30いかけて通学していたが、朝四時に起きて弁当を作ってくれる母や兄嫁の姿を見て、申し訳ない気持ちと、少しは落ち着いて勉強してみたいという思いがつのっていた。その矢先、戦前の寄宿舎が、数人の寮生で運営されている旨を耳にし、親しい寮生の岡谷や西岡の勧めもあって、再度の入寮を決意したのである。中学三年生の頃であったか、正確な入寮の時期は分からない。 昭和二十二年頃、吉島町の家屋のほとんどが、幸いに類焼はのがれたが、爆風による半倒壊の姿を留めていた。寄宿舎の門に立った時、八月六日の惨事が一瞬、脳裡をよぎり、感慨無量であった。 二階建ての棟は倒壊したまま、廃材として積み上げられていた。辛うじて左の平屋建てと舎監宅、炊事場が残り、寮生が生活する部屋には若干の手が加えられていたが、硝子窓は破れ、床板から隙間風が入るため、冬は押入れに入って寝ることもあった。それでも、暫時に入寮する生徒が増えて、二十名前後の寮生が起居を共にしていた。舎監の吉岡先生がおられたが、寮生の生活にはほとんど干渉されず、寮生による自治的組織によって寮は運営されていた。 寮長は二級上の前川、会計(総務)は経済感覚の豊かな同級の岡谷が取り仕切っていた。規則らしい規則は記憶にないほど自由であり、上級生や下級生の隔たりなく生活していた。戦前の寮生活とは、雲泥の差である。たとえ個性的な言動をしたとしても、暗黙のうちにお互いを許していたのだと思う。遊びは、吉島飛行場で草野球、貯木場での水泳、映画も楽しんだ。ギターやラジオの組み立てに熱中する者もいた。勉強は強制されることなく、お互いに切磋琢磨して頑張っていた。知らず知らずのうちに、お互いの影響を受けていたのではないかと思う。 食糧事情は相変わらず悪く、米の代替えとして、小麦粉や時には砂糖が配給になり、小麦粉はアルミの弁当箱の両側に電極を入れて、危険は承知の上で焼いた。砂糖はカルメラ焼きにして食べた。 朝食と夜食の炊事は寮生の当番制で行い、大釜で朝食と弁当を一緒に作った。おかずは、いつも沢庵と「ふくしん」漬けであったが、不足を言う者はいなかっ