ブックタイトルgakuto
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40いかと思います。 昭和二十年の四月に入学した当初、私は一年一組でしたが、確か六月の初めに一学期の中間試験があって、その後クラス変えがありました。一組の担任は細井先生(仇名、メンパチ)でしたが、当日新クラスとそれに移行する同級生の名前が次々と呼びあげられたのに、最後まで私の名前が出てきません。当時は、軍隊調で氏名を名乗り、「自分の名前が呼ばれませんでした!」と起立しますと、メンパチ先生、仇名の如く目瞼をパチパチまばたたせながら、「今、名前を呼ばれなかった者は、新しく級長、若しくは列長に選抜された者であるから、後でその所属する組を言う」 こうして私は一年一組に残りましたが、此の時が私の生死の別れ目であった訳でした。と言うのは、あるいはお兄さんは御存知で無かったかとも思いますが、二十年の七月頃から強制建物疎開作業が始まると、もう日曜日は返上となり、一年生五組のうち一組ずつ曜日に関係なく順番に休日をとる態勢で、八月六日の月曜日は一年一組の休日にあたっており、前日の五日は日曜でしたが、一組の白滝君や私は疎開作業に出ていました。だから田中君も若し一組であれば、当日爆心地近くの小網町でなく、平野町で被爆され助かるチャンスもあったと思うのです。 当時はお兄さんも御存知の如く、登校に際しては一定の集合場所(私の場合は広島駅前郵便局前)に集って、其此から隊列を組んで登校し、下校時も一度運動場に出て地区別に整列したあと、やはり隊伍をとって帰宅していたのですから、普通であれば住所やクラスの異なる田中君と親交を結ぶチャンスはまず無かったのですが、あの建物強制疎開作業が始まる様になって、隊伍を組まないで、現地集合、現地解散する様になり、それが間もなく悲惨な舞台となるとも露知らず、私達大いに開放感を味わったもので、田中君と親しく口をきく様になったのも疎開作業で一緒になってからです。 今から思えば、おそらく毎日空腹をかかえての建物引き壊し作業であったでしょうに、学校で授業前に静座させられたり、体育の時間イクオール銃剣術の生活