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59 警報なき空気が張っていたから頑張れた事と思われる。 民家の建物解体作業で近代的な文化を感じたのは、写真館の跡を片付けていた時に、スライド用の三十五ミリカラーの硝子板で、映画館にて広告に使用する物と思われる商品や店の宣伝用の奇麗な写真が瓦礫の中に捨ててあったので、五枚程拾って帰ったが当時としては珍しい品物であった。 時々学校の横の電車通りを軍隊の自動車とすぐ判るスマートな外国車が宇品港に向かって走り、ボディーの前横に三角旗をひるがえして通って、旗の色が、黄色が将官か佐官であって、青色が尉官であったと記憶しているが、黄色の時は大将であろうか少将であったのであろうかと友達と想像話をしたものである。 広島駅から学校迄の通学路は、猿猴橋を渡り的場町から鶴見橋の横を通り学校まで歩いて、江波の学校に較べると距離が半分以下なので、通学は近くなったが木造校舎で古くて暗い教室には、がっかりした。 被爆する数日前に物理関係の実験薬品を運動場の北側で、三角点の隅に深い穴を掘り数人の先生が埋めていたので、非常処理をしているのだと感じた。現在ならば八月は夏休みの最中であるが、当時は夏休みは無く、学徒動員の仕事開始は毎日八時からで、日曜日のみが休日であった。三学年以上は日本製鋼所へ学徒動員で学校には殆ど出ないで毎日直接工場に行っていたが、一?二学年は広島市内の軍関係施設や民家の建物疎開に一般の町民の大人と共に作業する毎日であった。 原爆投下の前日に我が家では、母が「明日は広島市へ民家の建物疎開作業に、町内会から割り当てがあって行かなければならない」と話しが出たので、どういうものか私は盛んに「行きんさんな」「どうしても行かなくてはならないのか行くのを止めんさい」と凄く反対して激しく言い争ったものである、自分が毎日つらい作業で仕事の内容を知っているので、母をかばった言葉であったと後日になって気付いた。 汽車通学での悪い想い出は、海岸の見える側の窓は全部鎧戸を降ろして、外の景色を見てはいけなかった事と、トンネルにはいると煤煙がデッキからと窓越し