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85 被爆の記録たのだろうと、その後あの時の有様を思い出す度におもうのです。現在私という人間の在るのは、全く命の綱である父母のおかげだったのです。 何もかも失い、職も捨てて、父が郷里へ引揚げる決意をし、宇品の港に行ったのは、二ヵ月くらいしてからでしたろうか。私はやっと立ちあがり、でも両うではほう帯の上にまだ血がにじむ頃でした。 松山に渡り、復員の兵隊さんや、戦災者やで、車窓から乗りおりするごった返しの時代、私の手の傷等人が気づくわけでもなく、おされもまれて四国に着いた時は、又一皮むけていました。 田舎の人達は、みせものの様に〝ピカドン?で焼けた人だと見に来ました。十七才の私は、死んだ人達の事で頭が一杯で、心なき子供たちが赤むけの私の顔をみて、「おさるのけつは真っ赤っか」とてがってかけ込んでいましたが、別に腹も立てねば何とも思わず、漠然と途方にくれていたのか、変な人間になっていた様です。 火傷がなおってからは〝生?へのめばえというか、唯ひたすら一生懸命町工場で働きました。中途退学をやむなくした私は、弟妹の進学に夢を持ち、生甲斐を感じました。皆素直に成長してくれ、末弟が高専を卒業し、社会人になって三年目になります。 父は十五年前、ノイローゼの様になって死にました。眠れぬ夜がつづき、苦しんだ父でした。あの炎の中を私をさがしに歩き廻った父は、きっと原爆の影響もあったと思います。血のけもなく白い顔になっていましたが、そのことに今程関心もなければ、増血の薬も少なく、勿論保障もない時で、本人も疲労くらいに思っていたでしょう。 八年前私が病みはじめた折も、原爆症など夢にも思わず、胸でも悪くなったのかと、五、六ヵ所でレントゲン写真をとった後、日赤で最後に、広島にいた事を言った事でした。それで血の検査の結果貧血していて、其の治療をして貰った事でした。原爆のせいとは思いたくないけれど、広島にいた母も造血機能障害があり、田舎に疎開していた弟妹は皆正常なのです。 でも、其の頃八ヵ月でおなかにいた男の子が二年生